Wunderkammer ** 司書の読書ブログ **

神戸で「なごやか読書会」を主催している羽の個人ブログです。

『わたしは異国で死ぬ』

感想を書き留めないと落ち着かない作品に、また出会ってしまった。生まれる国や社会情勢が違えば人生はこんなにも違うのだぞ、と強烈なパンチをくらった一冊だ。

読み進めるうちに、だんだん胸が苦しくなった。登場するのは架空の人物だが、ストーリーはウクライナの史実に基づいており、かの地で起きたあらゆる出来事は、あまりにも日本の日常とかけはなれていた。ユーロマイダン革命、クリミア併合、オレンジ革命チェルノブイリ原発事故。それらを生き延びてきたひとたちの話。

 

ウクライナ人はウクライナのためにウクライナ人と闘う」

ウクライナは戦争中だが、世界はまだそれを戦争と呼ばない」

「いまだに停戦はない、平和はない」

それらの言葉が、重くのしかかる。二〇二二年にロシアがウクライナに侵攻した直後から、日本では連日のように悲惨なニュースが報道されるようになった。しかし闘いという火はずっと前から燃えたり消えたり煙がくすぶったりしており、再びメラメラと燃えはじめたのだと、本書を読んで知った。

 

一体、どれほど多くのひとの心を傷つけたら、ウクライナの闘いは終わりを迎えるのだろう。すでに誰もが大切なひとを失っているというのに。誰もが癒えることのない心痛を抱えているというのに。いまもなお、誰かが誰かの大切なひとを奪っている。彼らは皆、お互いの痛みについてよく知っているはずだ。失う痛みを知っているのだから。なのになぜー

 

日本という平和な国で生まれ、そしてこれからもずっと日本で生きていくつもりのわたしにとって、生まれてから今までずっとウクライナで闘いつづけているひとの痛みや苦しみは想像をはるかに超える。ニュースで見聞きする被害や死傷者数に目を背け、どこか他人事のように感じていたが、ウクライナに住むひとびともわたしたちと同じように家族と過ごしたり恋をしたり子どもを育てたりしている姿がありありと描かれた本書を読み、とてつもなく強く心がゆさぶられたのだった。

 

紹介本:『わたしは異国で死ぬ』カラーニ・ピックハート

『イワン・イリッチの死』

思うに、健康なひとが最も想像しがたいことは、死ぬことである。

法律学校を卒業し、結婚して子どももいて、仕事では昇進し、持ち家があり、優れたひとたちと付き合い、平凡だが申し分のない生活を送っていたイワン・イリッチ。だがその生活は、ある些細なケガをきっかけに一変する。

本書の前半で、イワン・イリッチの職場の人間は、彼の死を自分の昇進と結びつけて考えるだけだったが、後半ではイワン・イリッチが苦しみ悶える。死はすぐそばまで迫ってきており、絶望の合間にわずかな希望が顔を見せるだけだ。

イワン・イリッチは、自分の生き方が道にはずれていたから、これほどまでに苦しみながら死ななければならないのか?と考える。だが、判事であった彼は、自分の生き方になにか間違ったところがあったと判決を下すことはできなかった。

肉体だけでなく精神状態も悪化していく描写がとてもリアルだった。ひとがゆっくり死にゆくさまは恐ろしく、小説の中とはいえひとの命が尽きる描写には息が詰まった。思い返せば、読みながら自分が息をしていたかどうかすら覚えていない。たぶん、読後に息を吹き返したのだと思う。

死にかけているときは、生に執着していると苦しく、生を手放すことができれば楽になるはずだ。そうイワン・イリッチは教えてくれた。

紹介本:『イワン・イリッチの死』トルストイ

 

関連本:『イワンのばか』トルストイ

トルストイならこの短編集もまたおもしろい。子どもにもウケそうなストーリー。読みやすいので、ぜひ。

『ある大学教員の日常と非日常』

海外旅行先のトラブルは避けることができない。


わたしもアテネの空港で乗り継ぎの便が予約できていないことがわかったり、ケルンのバスターミナルで乗る予定のバスが現れず結局乗れなかったり、マドリードで数万円をなくしたり、と、いくつもの失敗を重ねてきた。そのたびに一時的にテンションは下がるが、しばらくしたら目に入ってくるものに心を奪われていた。

「いろいろあったけれど、いい旅だった」
そう思えるような旅ばかりだ。

著者は大学のサバティカル休暇のため、ウィーン大学へ客員研究員として赴く。コロナ禍の2021年10月からウィーン大学で活動開始!
...のはずだった。

 

ウィーン滞在、コロナ禍の海外旅行、外国人研究員の招聘手続き(受入側)をわたしもしたことがあるので、著者の苦労が少しだけど分かる。

 

著者の場合、東京でのビザの発給、フライトの直前キャンセルなどのため、大変ややこしかったと思う。複雑な手続きを経て、ようやくビザ取得。

 

なのに、出国当日。羽田空港の出国審査カウンターで「無効のパスポート」をもってきたことがわかったときの、崖から急降下するような絶望感!!!(なぜビザ取得の段階で職員が気づかなかったのだろう...)

 

気を落としたものの、有効なパスポートでビザを取り直し、約2ヵ月後にウィーンの地に降り立った著者はすごい。


ウィーンの観光地巡り、オペラや美術鑑賞、グラーツリンツザルツブルク、スイス、ドイツ、ポーランドなど周辺への旅と、充実したサバティカル休暇の様子。


一方、アウシュヴィッツ強制収容所のツアーと、電車内にたくさんいたロシア系移民たちの姿は、現実は楽しいことばかりでないことを思い出させてくれた。

 

自閉症スペクトラムADHDの診断を下されている著者は、ふだんから健常者よりも失敗が多い。そこで「障害者モード」で旅をするのだという。すると旅先での失敗を減らしたりパニックになることが減る。

 

大事なのは、失敗を恐れないこと。旅に失敗はつきものだと思えば心も軽い。それにトラブルのない旅行より、トラブルも含めた旅行のほうが思い出深い。


最近は様々な理由で海外旅行をするひとが減ったけれど、海外でしかできない経験はたくさんある。わたしは海外旅行が大好きだ。著者の海外旅行記を、これからも楽しみにしている。

 

紹介本:『ある大学教員の日常と非日常』横道誠

関連記事:『イスタンブールで青に溺れる』横道誠

同著者が2、30代の頃の世界周遊期。

『ジャクソンひとり』

 

直感でビビッときた本は大概おもしろい。本書も例にもれず、ここ最近読んだ小説の中で、ずば抜けていた。

 

主人公はアフリカと日本のミックスでゲイのジャクソン。彼は職場で、自分らしき人物のポルノ動画が出回っていることを知らされる。撮られた時の記憶はない。いや、うっすらあるような気もする。

 

ひょんなことからジャクソンは、ブラックミックスのゲイ三人と知り合う。顔立ちの似ている四人は、結束し、動画の出処を探る。同時に、互いになりすまし、ちょっとしたイタズラを実行する。肌の色が似ている。目鼻立ちが似ている。見た目で決めつける人間にささやかな復讐をするのだ。

 

読んでいてスカッとする反面、ジャクソンたちは、四人ではなく「ひとり」と認識されていることにも気づかされる。性格も私生活も何もかもが違う四人。でも、人々の記憶に残っているのは、ブラックミックスの男という点だけだから。 

 

ぐいぐいと引き込まれるようなストーリー。無駄のない洗練された文章。描写は端的で、会話のキレも良く、他人の視線を浴びたときの心情や心の機微などの表現もとてもよかった。

 

本書は、ブラックミックスである安堂ホセさんのデビュー作。期待の新人を、今後も追いかけたい。

 

紹介本:『ジャクソンひとり』安堂ホセ

 

『顔のない遭難者たち』

「移民」と聞くと、暴力や迫害から逃れるために他国からやってきた人々が頭に浮かぶ。しかし、生きている人間だけが移民ではない。

二〇〇〇年から二〇一六年までに、少なくとも二万二千四百人が地中海を渡る途中で命を落とした。大半の遺体は、名もなき移民として扱われた。遺族たちは心待ちにしていた人々に会うことも、亡骸を見ることも叶わず、いまも心のどこかで、帰らぬ人を待ち続けている・・・

 

法医学者が扱う遺体の多くは、なんらかの犯罪の被害者が大半である。しかし、イタリアのラバノフ(犯罪人類学医科医学研究所)所長である法医学者の著者が目を向けたのは、アフリカや中東からヨーロッパを目指してやってくる移民たちの遺体だった。

 

地中海沿岸のイタリアでは、ヨーロッパの中でもとりわけ多くの遺体が流れ着く。本書では、二〇一三年十月三日にイタリア最南端の島で起きた「ランペドゥーザ」の悲劇と、二〇一五年四月十八日に約千人もの犠牲者を出した「バルコーネ」の事故が取り上げられている。

 

イタリアは後者の船の引き揚げを決定し、海軍、UCPS、消防隊、科学捜査班、シラクーザ県庁、特別機動隊、カターニア検察、シラクーザ県保険当局、赤十字軍事部門、大学、各種人道主義団体、そして著者の属するラバノフから成るメンバーたちが、日夜、移民の遺体をいっぱいに詰め込んだ船から遺体を回収し、冷凍、解凍して検死し、同定に必要な死-後(PM)データを集めた。

 

その結果、遺族から問い合わせがあった場合、遺体の写真を見たり、所持品の情報が合致したり、生前の遺伝子情報と一致する品といった死-前(AM)データがあれば、彼らがその事故で命を落としたことやお墓の場所などを伝えることができるようになった。

 

「移民たち」もわたしたちも、同じ権利をもっている。もしも、愛するひとが亡くなってしまったら・・・。きっと、一目でも最期の姿を見てから棺を閉じたいと思うだろう。亡骸がなければ、果たして心から故人を悼むことができるだろうか。

 

遺体に触れて、確かに死を確信できないことの苦しみを、今日の心理学では「曖昧な喪失(ambiguous loss)」と呼ぶ。現在、この「曖昧な喪失」状態の移民は、数え切れない。しかし、イタリアのように、死後のデータが保管してあれば、少なくとも亡くなったという事実だけは手に入れることができるようになる。

 

イタリアは移民の受け入れに積極的なだけでなく、ヨーロッパにたどり着く前に命を落とした人々のアイデンティティを取り戻す努力さえもしている。一方、日本はどうだろうか。難民の受入数ですら三桁台なのに、大量の移民の遺体を乗せた船が漂着したら・・・

 

生死の重みは、人類みな等しい。


命からがら自国を脱する人々のことを、日本人は遠目に眺めているだけではないか。必死の思いで逃げ出した人々について、その背景も含めて、改めて移民問題を考える必要がある。

 

参考:ランペドゥーザ島に住む少年と地中海を渡る移民たちの素晴らしい映画が二〇一七年に公開されている

紹介本:『顔のない遭難者たち』クリスティーナ・カッターネオ

関連本:『不自然な死因』リチャード・シェパード

法医学者による「不自然な死を遂げた人の遺体を解剖して死因を特定する」仕事を知りたい方にオススメ。文系でも読みやすい理系ノンフィクション。