Wunderkammer ** 司書の読書ブログ **

神戸で「なごやか読書会」を主催している羽の個人ブログです。

『西行 魂の旅路』

先日、吉野山に桜を見に行き、奥千本の「西行庵」まで足を運びました。

家に帰ってすぐ、本棚から取り出して読み始めたのが『西行 魂の旅路』。

 

西行は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて生きた歌人です。二十三歳ですべてを捨てて出家しましたが、唯一捨てきれなかったのが和歌でした。

 

出家の理由は、はっきりと分かっていません。

同僚の突然死で無常観を感じたとも、悲恋ともいわれていますが、本書では、草庵生活への憧れ説をとっています。

出家後は陸奥高野山、四国、伊勢などの山里を転々とし、庵を結びました。吉野の奥の院には、のちに俳人松尾芭蕉も訪れ、歌を詠んでいます。

 

西行の最も有名な歌に、

 

願はくは花のしたにて春死なむ

そのきさらぎの望月のころ

 

があります。

きさらぎの望月のころとは、釈迦が入滅した二月十五日のこと。西行はといえば、翌二月十六日に亡くなっています。

歌のとおりに亡くなれば、それこそ予告通りの完璧な往生だったかもしれません。ですが、あまりにも美しい花とあまりにも美しい月を最期に味わいたかった西行は、その日一日、現世に留まったのではないか。

本書では、そのように解釈されていました。 

 

花に心を奪われ歌を詠み続けた西行にふさわしい臨終ではないでしょうか。

 

今回はたまたま吉野の奥千本に「西行庵」があることを知り訪れましたが、高野山、伊勢、四国にもあったことを知り、いつか行こうと心に誓いました。

 

紹介本:『西行 魂の旅路』西澤美仁編

 

『赤い十字』

前々回に紹介した本と同著者の『赤い十字』も良かったので、続けて紹介します。

舞台は二〇〇一年のベラルーシ
主人公のサーシャは、ある理由から、三〇歳を前にして人生の終わりを感じていた。

 

物語は、サーシャが新たな人生を始めるために、引っ越しをするところから始まる。
新しい部屋がある四階にあがると、入口ドアに「赤い十字」の落書きがあった。拭き取ろうとしていると、おばあさんが通りかかる。おばあさんは「赤い十字」を書いたのは自分で、「アルツハイマー」だからうちを見つける目印がほしかったと言う。

 

おばあさんはサーシャを自室に招き、昔語りを始める。
一九四〇年代のソ連第二次世界大戦前の殺伐とした世の中が目に浮かぶ。おばあさんは、外務人民委員部(ソ連外務省)で赤十字国際委員会からの電報を翻訳していた。赤十字から送られてきた「捕虜名簿」に、偶然、戦地にいる夫の名前を目にする。当時ソ連にとって、敵国の捕虜になることは、その一家の死を意味していた。おばあさんは生き延びるためにあることを計画するのだが・・・

 

半分ノンフィクションのような小説だった。というのも、本書に登場する資料はすべて実在するからだ。

 

サーシャ・フィリペンコは物語の設定がすばらしい。
『理不尽ゲーム』のときは昏睡状態の人物が出てきて、生きているのに眠らされている(つまり独裁政権に対して無力な)現在のベラルーシの人々に重ねられていた。

『赤い十字』のアルツハイマーのおばあさんは、記憶の喪失、つまり、歴史の忘却に対する比喩である。

 

こうして、小説という形式で、忘れ去られてしまう過去を知れるのはありがたい。そこからまたソ連の歴史や現在のロシアとベラルーシの関係などに興味が広がっていく。広島や長崎の原爆もそうだが、人間には語り継がねばならない歴史がある。

 

『戦争は女の顔をしていない』のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチも「真剣な作品を書く稀有な作家」と絶賛しているサーシャ・フィリペンコ。
今後も邦訳されるたびに読みたいと思う現代作家のうちの一人である。

 

紹介本:『赤い十字』サーシャ・フィリペンコ

『誕生日パーティ』

パズル好きの友人に「最後の一ピースがはまらないジグゾーパズルなんてない」と言われたら、「ある」と、自信をもってこの本を差し出そう。

f:id:nagoyakabc:20220326000040j:image

本書は、七〇年代のカンボジアポル・ポト政権下と現在が交互に語られるミステリー小説。 

 

カンボジアの歴史も、クメール・ルージュという言葉も知らない者としては、残虐なシーンがとても辛かった。


人間が人間として扱われない描写に吐き気を催し、現在の誕生日パーティの様子に胸をなでおろす、というのを繰り返し、残りのページが少なくなるにつれ、額に汗をかき、全身に鳥肌が立ってくる。クライマックスは胸がはりさけそうだった。

 

結末はやけにあっさりとしていた。これのどこがミステリーなんだ?と思った。でも、なんだか辻褄が合わないような気がした。わたしは、なにか重要なことを見落としているのか。なにか勘違いをしているのか。

 

そして、唐突に理解した。わたしはジグゾーパズルをしていた。欠けたピースを頭の中で補っていた。ピースは順調にはまっていた。ところが、最後の一ピースがはまらなかった。再度、組み立て直したら、全く別のストーリーが浮かび上がってきた。

 

「誕生日パーティ」という言葉から連想されるハッピーな感じとは真逆の、衝撃のミステリー小説。

いや、これはもう、すごいとしかいいようがない。

 

 

紹介本:『誕生日パーティ』ユーディト・W・タシュラー

 

『理不尽ゲーム』

ここ最近、面白い小説しか読んでいないのだが、その中でも『理不尽ゲーム』は、ずば抜けて良かった。

f:id:nagoyakabc:20220311100109j:image

東はロシア、南はウクライナと接する国、ベラルーシ

ヨーロッパ最後の独裁国家では、もはや公正な選挙は行われない。抵抗すれば理不尽な武力で押さえつけられる。民主化を求めるデモと弾圧の歴史が、何度も繰り返されてきた。

最終的に、国民は、理不尽なことに目をつぶって生きていくか、自由な思想・発言を求めて国外へ去るかのどちらかを選ぶことになる。

 

一九九九年にミンスクの地下鉄駅で起きた悲劇的な事故で、フランツィスクは昏睡状態となった。脳死状態であり、治る見込みはない、と、医師は匙を投げた。

それでも祖母は懸命に世話をし続けた。

「望みはずっとないけれど、いちばんすごい奇跡はいつも、望みがないときに起きるんだよ。望みがないときに起きるのが、奇跡なんだ......」

 

フランツィスクが十年後に目覚めた時、ベラルーシは昏睡状態にあった。二十六歳になった彼は、周りの景色を見て驚く。十年前から体制は変わっていない。町の人々の顔からは笑顔が消えている。不穏な空気を察し、理不尽な話を聞くにつれ、国家のもつ偉大すぎる権力の理由を徐々に理解していく。
彼が失った十年を取り戻すように嬉々として遊びはじめた頃、ベラルーシもまた目覚めかける。だが、一度は目覚めたかのように見えたベラルーシは再び昏睡状態に陥り、フランツィスクは・・・。

 

実際にあった事故や事件をベースに、ベラルーシの内情を描く、社会派小説。

ベラルーシ独裁国家について、知らなくてもわからなくてもいいから、手に取ってみてほしい。訳者のあとがきまで読んだら、もう一度最初から読みたくなるはずだ。

さて、理不尽な話は、いくつ見つかるだろうか。

 

紹介本:『理不尽ゲーム』サーシャ・フィリペンコ

 

関連本:『夕暮れに夜明けの歌を』奈倉有里

『理不尽ゲーム』を邦訳された奈倉有里さんの随筆集。留学先のロシアでの学生生活や恋愛を赤裸々に語る。読めばきっと旧ソ連圏の文学を好きになる。

 

『星のせいにして』

戦争と感染症。その両方に、今、世界中が耳目をそばだてている。

ところが、時計の針を戻すと、過去にも同じことが起きている。

ロシアによるウクライナ侵攻と新型コロナウイルスパンデミックは、一九一八年の第一次世界大戦スペイン風邪の大流行と、「戦争と感染症」という点では、よく似ている。

本書は、その二つの「戦い」に三つ目を足した。女性たちの身体の「戦い」、つまり「出産」である。

本書の舞台は、一九一八年のアイルランド
主人公は〈産科/発熱〉病室を任された看護婦ジュリア。
病室には、インフルエンザに罹患した出産間近の妊婦たちがいた。


病院の仕事は激務だった。患者数はふだんの二倍、医療スタッフ数は四分の一。人手不足に加え、第一次世界大戦の影響で備品も不足していた。死の淵を歩くひとたちだけが、溢れていた。あるいは歩いて生き延びたひとたちが。

 

看護婦ジュリアと、お手伝いの少女ブライディが、病院の屋上で、夜空を見上げながら話すシーンがある。

「イタリアでは、病気は全部、星たちから受ける影響のせいだと思われていた-だから、インフルエンザって呼ばれるんだって」

ジュリアは、星々が小さな光の投げ縄で、私たちを生け捕りにするところを思い描く。

この一瞬のきらめきのような夜の後、

ブライディは燃え尽き、

ジュリアは希望の星を抱えて病室を去る。


戦争、感染症、出産。

どれも、命を落とす可能性のある身体の「戦い」。

病と戦争疲れに侵略された小さな四角い世界で、隣合わせの生と死が、血なまぐさいほど鮮やかに描かれた傑作。

 

紹介本:『星のせいにして』エマ・ドナヒュー

 

 

関連本:『部屋 』エマ・ドナヒュー

2022年3月時点では、同著者の邦訳作品は『部屋』のみ。これは...あらすじもレビューも読まずに読んでほしい。一体どういう状況なのだろう?と想像をふくらませながら。